前のブログで眞鍋かをりと名前並べときながら、その後ブログを更新しないというね。
清水宏香です。
話の枕が長いので枕アナウンサーです。意味が変わってきますね。
さて、劇団まんまるは今年も劇王に挑みます。
代表丸山はじめ出演者、スタッフのミニマムクルーで松山に乗り込み、忽那の人気と作品の面白さで勝負をかけます。
今日6日(日)が本番の日。
どうか、どうか2回上演、つまり決勝進出するように私が出来る事は、徳島から祈るのみです。
今年は仕事が完全に重なり、出演はおろか応援にも行けません。
こんな年は劇団まんまる結成以来初です。
しかし、稽古には参加してきました。
11月は毎週忽那さんを家に泊め、飲んでは稽古、飲んでは稽古の日々でした。私は二日酔いで行けなかった日も2回ありました。
最後の稽古を終えた忽那さんは、「次会う時は旦那さんは劇王っすね」と微妙にカッコいい事残して松山に帰りました。マジで頼むわ。
急遽キャストが変わり、丸山さんが出演者になったことで外からの目が必要になったので、後半は私が演出の部分も担いました。
私は今回の演目「なにもかけてない」が初演の時から大好きです。
丸山さんがこれを書き上げたのは、演劇大学inさかいでの後の深夜でした。
正直、読むのクソだるかったのですが、毎度丸山さんが脚本を書く際には私が読み合わせに付き合っているので、その時も眠い目を擦りながらだらだらと読み合せていました。
最初は野球の話とかあんまり知らんし、少しも面白くなかったです。
おまけに変な言葉ばっかり出てくるし。
なんじゃこりゃ。という作品でした。
でも、不思議な事に、読み進める内にその変な言葉に親近感を抱くようになっていくのです。
ラストにはその変な言葉を知ってる謎の恍惚感さえ持ちました。
演劇って、そこが家!と言えば家になりますし、車!といえば車の中になります。言わなくても、タバコを吸い始めたら喫煙所、気張り始めたらもうそこは便所。
ある意味暴力的な力技ですが、映画などの映像作品とは違う魅力はそこにあると思っています。
この「なにもかけてない」に出てくるへんてこな言葉も、それがそうだと言えばそれが共通認識の言語になる訳です。
こう書くとちょっと小難しいですが、例えば、あなたが転校生だとして、クラスに馴染めない内はクラスメイトの名前も知らない言葉同然ですよね。名前という事は分かっても、それがどんな誰を指すのか分かりませんよね。
さらにクラス独自のルール、朝の会で「トムソンガゼル」と唱和するなどがあったらもうちんぷんかんぷん、疎外感を感じるのは明らかです。
しかし、馴染むにつれて、その言葉は身近になっていきます。
すると、もうその言葉はあなたの物で、口にすることで仲間との絆を感じ、卒業の時にはもうトムソンガゼル言わないのかと思うと寂しさを感じるでしょう。
「なにもかけてない」は、私にとって、そういう言葉の奥深さを語っている本なのです。
深読みしすぎかもしれません、っていうか最初そう言われました。
丸山さんの師匠は平塚直隆さんっていう「オイスターズ」の座付作家なんですが、ある作品の公演後の対談で、女優の渡辺えり子さんに「これはこういう意味も込めてるんですよね?」と聞かれて、平塚さんが「いやあ、別に」と答えてたのを笑いながら観ましたが、丸山さんもめっちゃそんな感じでした。
でも、空白、余白があるからそこ観客がそれを埋めていく、そして満足していく物でもあると思うんです。
謎解きゲームの面白さと似てますね。
まあ、何が言いたいのかというと、
「なにもかけてない」は、あなたがのめり込めさえすれば無限大の可能性を秘めた超絶演劇的作品っていうことです。
深夜なので盛りすぎましたかね。
いかに観客と舞台を共有出来るかが勝負のカギですね。
ちなみに何回か上演してますがほとんどウケませんでしたので、賭けでもあります。
演劇が好きですか?
私は大好きです。
超演劇的になるかもしれない作品「なにもかけてない」で、一緒にペッケリンを見ましょう。
ま、見れば芭蕉の膝が鳴るってなもんですよ。
余談ですが、例に出したトムソンガゼルは、私の大学生の時の彼氏安藤君の口癖が「トムソンガゼル高校1年、トムソン・ガゼルです」だったからです。